下川裕治(しもかわ・ゆうじ)
1954年、長野県松本市生まれ。旅行作家。新聞社勤務を経てフリーランスに。『12万円で世界を歩く』(朝日文庫)でデビュー。アジアと沖縄、旅に関する著書、編著多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』(双葉社)で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。近著に『沖縄にとろける』『バンコク迷走』(ともに双葉文庫)、『沖縄通い婚』(編著・徳間文庫)、『香田証生さんはなぜ殺されたか』(新潮社)、『5万4千円でアジア大横断』(新潮文庫)、『週末アジアに行ってきます』(講談社文庫)、『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書)がある。
たそがれ色のオデッセイ BY 下川裕治
またしてもやってしまった。
徹夜で乗るLCCである。
いま、マカオにいて、この原稿を書いているのだが、話は昨日、いや正確にいうと一昨日に遡る。
日本から香港に行くことになった。航空券を買わなくてはならない。サイトを見ると、やはり香港のLCCである香港エクスプレスが安かった。預ける荷物がなく、座席指定をしない条件で、片道1万2540円。これまで往復で4万円はかかった香港までの航空券代を考えると、小躍りするほど安かった。6割ほどの運賃である。
しかし出発時刻を見て呟くことになる。
「またか……」
羽田空港発着なのだが、出発時刻が朝の6時20分だったのだ。
この連載で、成田空港から那覇に向かうジェットスターに乗ったときの話をした。やはり出発が朝の6時台だった。この時間帯になると、始発を乗り継いでも間に合わない。深夜の1時30分に東京駅を出発する格安バスに乗るしかなかった。3時30分に成田空港に着き、そこからチェックイン、セキュリティーチェックと続き、午前5時30分に搭乗した。ほぼ徹夜でのLCCになってしまった。若者なら体力で乗り切るかも知れない。実際、この飛行機の乗客は若い人が多かった。
しかし僕はもう60歳なのである。年というものを、ある程度は考えたほうがいい……そう思わせる便だった。徹夜LCCはもうやめよう──那覇の空を見あげながら呟いたものだった。
しかしLCCという航空会社群は、こういう客の発想には耳を貸さず、堂々と早朝便を飛ばし、安い運賃という誘惑をしかけてくるのだ。
そして、「もうやめよう」と心に誓ったはずなのに、クリックしてしまうのである。なんと値段に弱い男かと思う。周りの人にはとてもいえたものではない。こういう原稿を自分で書きながら、ずんずんと落ち込んでいってしまうのである。
成田空港へは、深夜の格安バスがあったが、羽田空港にはその種のバスもなかった。国際線だから午前3時30分ごろにはチェックインがはじまるという。
ということは、終電近い電車に乗って羽田空港に向かい、眠さと闘いながら、ただぼんやり待つしかなかった。
乗る前から気が重かった。
しかし航空券を買ってしまった。
羽田空港に着いたのは午前12時近かった。インフォメーションで訊くと、羽田空港は24時間開いているという。ありがたかった。チェックインフロアーにあるベンチで眠ることができる。しかしすでにベンチはかなり埋まっていた。出発案内を見ると、朝の6時台には、香港行きのほかにソウル行きの便もあった。この便に何回か乗った人は、横になるベンチが足りなくなることを知っているらしい。少し早めに来て、スペースを確保しているようだった。
幸運だった。柱の陰にあるベンチがあいていた。目覚ましを3時にセットして横になる。徹夜LCCの3時間の睡眠は貴重である。
3時30分にチェックインははじまった。香港エクスプレスは、チェックイン時に窓側か通路側かの指定が無料でできた。
機内は若い香港人が多かった。8割がた埋まった。これでは体を横にすることはできない。座ったままの4時間のフライトになった。香港の空港には9時30分に着いた。
もう乗るのはやめよう。香港の空を見あげながらまた呟いていた。